読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

三國正樹 『読書記録』

今までに読んだ本の記録です。

ピアノの誕生 楽器の向こうに「近代」が見える

著者:西原稔      発行所:講談社

読書年:1998年

印象に残った言葉: 忍耐と勤勉さを持ち、厳しい試練を耐え抜いた人だけが、栄光の華やかな舞台で人びとの熱い視線を浴び、人生の勝利を実感できるのだという、精神主義的な理想は、試練と忍耐は過酷であればあるほど浄化されるのだという自虐的な思想を生み出す。エチュード練習の勤勉さを近代資本主義社会における労働者の勤勉さと結びつけて解釈する人もいるが、ピアノと野球には共通になにかハングリーな精神構造があるような気がしてならない。

・・・現代はこういう意識は一般的には少し違ってきているような気もしますが、エチュードの存在意義について少々疑問を持っています。必要であることには変わりはないのですが。チェルニーの「8小節の練習曲」などを効率的に使用する方法など、研究しているところです。

・・・野球のことが書かれていますが、昔は好きだったプロ野球も最近はあまり見なくなりました。たぶんあの応援のワンパターンな感じが耐えられないのだと思う。サッカーも同じ。

・・・ピアノと共通しているのは自動車、という話も聞いたことがあります。新車を買っても最初のうちはいい走りをしない。「慣らし運転」のあとで気持ちよく動くようになる。中古市場が多い(「ピアノ売ってチョーダイ」等)。メンテナンスが重要。等々。違うのは国産と舶来の価値観くらいかも。

・・・ピアノを演奏することは楽しいことです。そう思って練習しないとつまらない。それだけは言えると思っており、コンクール受賞歴のほとんどない私は、ここに書かれているような労働者的ハングリー精神で試練を受けるといったピアノの練習については懐疑的なのです。現代はコンクールで賞をもらうためのピアノ、という文化になりすぎてはいないだろうかということもいつも考えます。もちろんあるパッセージを弾けるためにエチュード等を何度もさらうことはある。しかし、いずれ「楽しく音楽を行うために」最小限の努力をしているのであって、エチュードそのものが生きがいだとは思っていない私ではあります。ただ、仕事として演奏を行う時は「楽しく」などとは考えておりませんので悪しからず・・・

頭のきれる奴の とっさの詭弁術

著者:増原良彦      発行所:KKベストセラーズ

読書年:1986年

印象に残った言葉: ましてや誇張された表現は、誇張されただけ実がないと考えた方がよい。/その点では、いちばんよく使われる誇張表現は、「死んだ気になってやります」という奴である。碁や将棋の場合であれば、「死んだ気」というのもわからぬでもないが、人間そのものに関して「死んだ気」などと言われても、その人間は信用できるはずがない。いや、そもそも「死んだ気になる」には、どうすればなれるのだろうか。

・・・子供の頃は結構おしゃべりだったという話を親がしていますが、ピアノを習っていたため友達が少なかった中学校時代。そのためか口数が少なくなり、人前で話すのが苦手という性格になってしまいました。そして簡単に口の上手い人間に騙されるという結果に。それではいかんということでこういう本を読みだしました。これはなかなか面白い本です。阿刀田高『詭弁の話術』も面白かったのですが、こちらは論理的な解説があるのが特徴でした。

・・・「死ぬ気で頑張ります」という言葉は私も何度か聞いたことがありますが、この本にあるように結局は駄目だったということばかりのようで、言葉でこのように言ってもあまり効果はないということかもしれません。物事はやはり計画的な準備が必要。そしてこの本からはマスコミで用いられている様々な詭弁について知ることができ、勉強になりました。

行儀よくしろ。

著者:清水義範      発行所:筑摩書房

読書年:2005年

印象に残った言葉:教育のことを全て学校まかせにするような態度、言論は、教育を真面目に考えている人間のものではない。教育というテーマで学校論しか語れない人は、その他の教育について、あえて目をつぶっているのだ。

・・・大学統合問題があったころ、仕事がら教育論関係の本をたくさん読みました。それからずいぶん時が経過しましたが、今でも時々読み返している本が「東京大学は変わる」(浅野攝郎・大森彌・川口昭彦山内昌之編、東京大学出版会)、とこの清水氏の本です。清水氏はパスティーシュ小説の大家ということで有名になった人だと思いますが、こういう教育論もなかなか素晴らしいのです。

・・・たしかに日本は豊かになった。そしてのびのびと生きるようになったように思いますが、この本で述べられている「社会性と我慢」についてはまったく同感です。

クラシック音楽の政治学

著者:渡辺裕/増田聡 ほか      発行所:青弓社

読書年:2006年

印象に残った言葉:われわれが「ウィーン的」だとか「ウィーンらしい」と呼ぶようなもの自体、こうした状況と相関しながら現在進行形で作りだされているものにほかならないのである。/このようなことは、単に音楽の外側の話にとどまるわけではなく、音楽自体のあり方とも直接に連動している。

・・・独特のウィンナ・ワルツのリズムは時代とともに変化していたという事実をこの本で初めて知りました。

・・・音楽を勉強するために音楽高校・大学に入学したと思っていたのですが、その「勉強」の意味するところは、実は先生の奏法の単なる模倣にすぎなかったり、伝統を受け継ぐこととその暗記に過ぎなかったりすることを知り、いったい自分は何のために音楽を行っているのだろう、と考えることもあったように記憶しています。その後、和声を深く勉強したり、楽曲分析の方法を学んだりするようになり、さらにD.J.グラウト『西洋音楽史』を読み、勉強は自分でテーマを見つけて行うものだということに気づきました。それから自分らしい勉強ができるようになったと思います。

・・・昔から「ここはこういう音で」などと部分的・感覚的に「音」を見つけていくような演奏論が苦手でした。自分の「演奏」は、さまざまな研究を生かしたものにしたいと常々思っており、このような本を読んで情報を得ることが基本になっています。

ピアノ・ノート

著者:チャールズ・ローゼン(朝倉和子訳)   発行所:みすず書房

読書年:2011年

印象に残った言葉:これもまたウィーンを発祥地とする(と思われる)最近の流行は、両手を同時に弾かないーー左手を右手より早めに弾くーーという昔の慣習的奏法の復活である。十八世紀にはこれはルバートと呼ばれ、装飾的表現法のひとつだった(ショパンが「ルバートでは左手は拍子を確実にとり、右手は自由に弾く」と言うときのルバートが、ここでいうルバートの意味だが、この術語にはこれとは違う意味もあり、ショパンには違う種類のルバートも出てくる)。(中略)こういうルバートはホロヴィッツシュナーベルの演奏にはめったに見られず、アルトゥール・ルービンシュタインゼルキンおよびその同時代人はまずこういう弾き方をしない。

・・・副題は「演奏家と聴き手のために」。ここに述べられているような奏法が苦手です。自分で行う気はありませんし、聴かされるのは本当に苦手。あるピアノリサイタルで、最初の曲が始まったらほぼすべての和音がこの弾き方をされていたことがあり、休憩で帰らせてもらったこともあったくらいです。この方法を濫用したピアニストについても述べられており、パデレフスキ、バウアーの名前が挙がっていました。バックハウスやベネデッティ=ミケランジェリにもこの傾向があったようです。この本では「表現にかかわる技法を系統的に使うことの問題点」というように書かれておりまして、C.ローゼン氏の考え方には私は全く賛成であります。ある種の「癖」と思われるような奏法を繰り返されるのはつらいものでして、音楽作品が芸術であるのなら、演奏も芸術をめざしてほしいものだと常々思っているところです。

・・・演奏会に出かけることが少なくなりました。仕事の忙しさといえばたしかにそれもありますが、心を動かされるような演奏会が少なくなったことも原因かもしれません。若いころは勉強ということもあり、少ない小遣いをやりくりして演奏会をよく聴きに行きました。最近は自分の出演も控えるようになってきているので、情報誌などを見ながら良さそうな演奏会を見つけてみたいと思っています。

ベートーヴェンの生涯

著者:青木やよひ      発行所:平凡社

読書年:2010年

印象に残った言葉: 巨匠は、機嫌よく十五歳の音楽家の卵にさまざまな話をした。その中で「芸術は休みなく後世に伝えていかなければならない」という励ましの言葉と、「民衆の声は神の声だと言われるが、私はそんなことは信じない」という言葉が、ヒラーの記憶に深く刻み込まれたのだった。

・・・当時のワイマルの宮廷楽長だったフンメルがベートーヴェン危篤の知らせを聞いてかけつけた時の話。フンメルは妻と弟子のフェルディナント・ヒラーを連れていったそうで、そのヒラーが会見の模様を書き残したということです。

ベートーヴェンの伝記は何冊も読みました。その中で、最新の情報が得られ、読みやすく感動的なのがこの本だと思います。他の研究書では、メイナード・ソロモン『ベートーヴェン(上・下)』、児島新『ベートーヴェン研究』、チャールズ・ローゼン『ベートーヴェンを“読む”』、石井宏『ベートーヴェンベートホーフェン  神話の終り』も印象的な本でした。

セイヤーの『ベートーヴェンの生涯』を読んだのは学生時代でした。素晴らしい著作でしたが、昔のことなので忘れてしまった部分もあります。もう一度この本を読み返してみたいと思っています。新たな発見があるかもしれません。このように、昔読んだ本を読み返すのも私にとって大事な仕事の一部と言えます。

クラシック音楽はなぜ<鑑賞>されるのか

著者:西島千尋      発行所:新曜社

読書年:2011年

印象に残った言葉:つまり、昭和初期のクラシック音楽受容の特徴には、「学問」として受容された側面と、「人格形成」の理想として受容された側面とがある。そしてこの両側面の基盤をなしているのが、教養主義であった。

・・・小・中学校の音楽の授業で行われる「鑑賞」が苦手でした。レコードを聴かされるのですが半数以上の人は寝ていたり、お喋りをしたりしている。そして感想を書かされる。その感想は先生の指導に沿ったものでなければならないというイメージが今でも残っているのですが、そんなことでいいのでしょうか。ベートーヴェン交響曲第5番を聴いた時に「苦悩を突き抜ければ歓喜に至る」というように感じなければならないのか、ということ。第1楽章を聴いて「なぜあのように同じリズムを繰り返すのかがわからない」などと書いたら先生に怒られそう。とは思いながら結構勝手なことを言ったり書いたりしていたのが私の少年時代だったように思います。ピアノを習っていながら音楽の成績がそれほど良くなかったこともあるのはその辺に原因があるのかもしれません。

・・・音楽の授業と言えば「創作(作曲法)」がほとんどなかったことも心外ではあります。小学校4年だったかで1回、中学校3年で1回習ったのですがそれだけ。あとはとにかく歌が多く、ときどきあった「器楽」はリコーダーでした。鍵盤ハーモニカは私のころはありません。偏っていませんかねぇ。

・・・「鑑賞」と「観賞」、「批評」はどう違うのか。さらに「鑑賞」は日本独特の考え方であって、それに相当する言葉は、英語にも他の言語にもないという指摘。明治以後に使われ始めたこの言葉の変遷をたどると、日本の「音楽科教育」はこれからどうあるべきかについて考えるきっかけになるという気がしています。